ニュータウン

考えがあるセイウチ

あたらしいまち

学生時代の恩師に、

日記でもブログでもなんでもいいから、とにかくたくさん文章を書きなさい。

書けば書いただけ文章がうまくなるからと言われ、

狂ったように文章を書いていたのも今は昔。

先日データ整理のために当時使っていたパソコンを久しぶりに開いたが、

すっかりキーボードの位置が手に合わなくなっていた。

そして購入してから1年近くたつこのパソコンで、

先ほどから誤入力の嵐に既に心が折れそうである。

 

結婚をして家を出た。

30年近く暮らした家族と離れて暮らすのは初めてだった。

住み始めた街には本屋もスタバもTSUTAYAもない。

カラオケはないのにカラオケスナックは異様に多く、

土曜の昼間からお年寄りの歌声がうっすら漂う街である。

夜中に酔った大学生の笑い声が聞こえる。

汚くて狭いところばかりだが、

安くて旨い飲み屋には困らないこの街は、

どこか夫が結婚前に住んでいた大阪に似ている。

 

地元が嫌いだったわけではない。

むしろ慣れ親しんだあの街が大好きだった。

だけれども、自分の選んだ人と、自分で選んで暮らし始めたこの街を、

 

なかなか開かない踏切で立ち往生するとき、

分煙の意味を為さない禁煙席でハンバーガーを待つ間、

蕎麦屋さんに貼られたメニューが透けて、去年のカレンダーの裏紙だと気づいた時、

無駄な動きが多くてちょっと苦手だったレジのおばちゃんだったのに、

そのスーパーが閉店する時には、もう会えないのかと寂しくなっていたときに、

太った野良猫が道案内をしてくれた帰り道で、

ああこの街がわたしの住む街なのだと、

少し愛おしく思うのだ。

そしてそんな風に感じられることを、なんだかとても尊いことのように思えて、

初めて自分で生きている実感が持てた、なんて言ったら大袈裟だけど、

自分から家を出たという少しの高揚感は、

新しい生活が明るいものであると予感させてくれるのだ。

 

この気持ちをいつか忘れてしまうのがもったいないな、

という少しのセンチメンタルで、

あたらしいまちでまた文章を書くことにした。