ニュータウン

考えがあるセイウチ

ヒロインのその後

少女漫画のエンディングは明確で、好きな人と結ばれたり、結婚したり。

その先を連載し続けるのが難しいのは、惰性になるから。

一番楽しい時期は中高生で、恋に落ちてなんやかんやあって結ばれるまでに全神経をすり減らし、その後燃え尽きる。

一方少年漫画は、一人敵を倒したらまたすぐ次の敵が出てきて、しかもその敵は前の敵より必ず強い。

その繰り返しでどんどん自分が強くなっていく。もう続けようと思えばいくらでも続けられるっていう。


しかしながら現実はそういうものではなく、ゴールかと思ったとこからのが実は大変だったりして、

掃除したと思ったら洗濯が溜まってて、ようやく干したら洗い物が散乱してて、会社行ったらハネムーンはいつ?!早めに引き継ぎしてね!子供は?産休入るのはいいけどこっちも準備があるからね!?なんてプレッシャーをかけられ、

いやいやそもそも子供欲しいなんて一言も言ってないなんて口にしようもんなら親からバッシングを受けちゃったり?

次々産まれる周りの子供たちに笑顔振りまきながら心で泣いて、

その横を一心不乱にゴールへ向かって走っていく若い子たちのキラキラに嫉妬したり、趣味?そんなものもあったねーなんつって。

おいおい、そんなの少女漫画に描かれてなかったっつーの!

よっぽどこっちの方がダンジョンしてんじゃねーかと、旦那が持ってきたハンターハンター読みながら思ったっていうね。笑


次から次に襲来する敵を倒してたらとてつもなく強くなってって、最終形態が老害ババアとか泣けるよ?

それでもう一度あのドキドキを!ってたどり着いた先が昼顔とかアイドルとか韓流スターとか泣けるよ?


っていう思考が夜な夜な降りて来ちゃったもんだから、私またこれで卒論書けそうです先生。←Facebookで言って


ももう私には時間も気力も体力もないんや。これが社会人になるってことなんや。

って、今更気付いた社会人に7年目の春。

先生、私二ヶ月ごに31歳になります。←


ところで、次から次へと強い敵を倒してレベルアップしてった少年たちは、

ゴールするとどうなるんですかね?

描ききれなくて途中で息も絶え絶えな作者も少なくないですが。

と、今年定年を迎える父を見て思ってみたり。


とりあえず、またしんどくても億劫でも自分の物語に戻ります。


なんつって。

Defiled -それは気高く、神聖なものがけがされること-

「何がテクノロジーだ」

 

ハリーの言葉が何度も頭の中でリフレインする中、

帰宅後すぐにパソコンの電源を立ち上げ、

テクノロジーの作り出した架空の紙に感想を書き連ねているという皮肉な状況なのだけれど。

 

私はA.B.C-Zが好きで、中でも戸塚くんのファンなので、

今回の舞台はもちろん出演が決まったときから真っ先にチケットを確保していたし、

本当に楽しみで、

ここ2か月続く残業の日々も、今日のことだけを励みに乗り切ってきたところがあった。

事前にあらゆる雑誌やテレビ、ラジオなどのインタビューから作品の情報を仕入れてはみたものの、

戸塚祥太くん演じるハリー・メンデルソンが、カード目録がコンピューターに変更されることに抗議して、

愛する図書館に爆弾を持って立てこもるという設定と、

勝村政信さん演じる刑事のブライアン・ディッキーがそこに説得にやってきて繰り広げられる二人芝居だということは分かったものの、

しきりに戸塚くん自体がハリーの気持ちを理解しきれないと話していたので、

いまいち登場人物の感情的立場が想像できないまま観劇当日を迎えた。

 

上演されるDDD青山クロスシアターは、渋谷駅から少し離れた場所にあり、

住宅展示場やオフィスビルなどの間に建っている、ちょっと変わったビルの地下にあった。

階段を下りて行くと、中からビーチボーイズのサーフィンUSAが聞こえてきて、

これから立てこもる話をやるってところで、何故この曲?

と拍子抜けした。

その後もブルース・スプリングスティーンのボーン・イン・ザUSAだの、

やたらアメリカ押しな選曲が続く中、

購入したパンフレットに目を通していると、

この作品は9.11のテロの前年にアメリカで初演され、

グローバリズムという名を借りたアメリカニズムによって、

徹底的に他者を排除しようとしたブッシュ政権に、

そして今再び強いアメリカを振りかざすトランプ政権に抵抗する人々こそが、主人公のハリーなのであるとの翻訳者・小田島恒志さんの言葉が目に留まり、

なるほど、これはそれ以前のみんなが(少なくとも日本が)憧れていた頃のアメリカの象徴なのかしら?

なんてぼんやり考察をしながら開演ブザーが鳴るのを待っていた。

(後、このところこじらせて止まらなくなっていた鼻をこれでもかとかみ、

昨日から突然始まった生理にナプキンが耐えらますように。と念じておいた)

 

冒頭、ハリーは爆弾を丁寧に本棚にちりばめて行く。

わざわざ靴まで脱いで、大切なカード目録の棚に乗り隅々まで丁寧に設置していく。

そこにディッキーが到着して、可愛らしいチェック柄の水筒をもって乗り込んで来た。

登場シーンから、ディッキーが愛嬌たっぷりの憎めないおじさんだということが伝わってくる。

そして、どうにかしてハリーを説得して、

この事件を平和に解決しようと、彼の要求の理解を試みる。

カード目録がいかに価値のあるものか、

それに対してハリーがどのように関わってきて、

どれだけの思い入れがあるのか。

あらゆる角度からアプローチするものの、

結局最後まで「それでどうして図書館ごと爆破」しなければならないのか。

という結論にはたどり着けないのである。

 

何故か。

信じているものが違うから。

ハリーは劇中、自身が無神論者であることを語るシーンがある。

年に一度、母の命日に教会に行くのも、ユダヤ教徒だった彼女を感じることができるのが教会だからという理由であって、

彼は宗教を信仰しているわけではない。

じゃあ何を信じているのか。

それが本であり、それらを作ってきた人であり、

本を読むことであり、その文化そのものであり、

それによって蓄積された知識であり、彼そのものなんじゃないだろうか。

カード目録はその象徴であって、ハリーの神様(と私は呼んでいる)は、

きっと彼の中にある。

 

ディッキーと繰り返される、一向にかみ合わない膨大な会話を浴びるにつれ、

徐々にそれが浮かび上がってきた時に、

私はどうにかしてハリーを守りたいと思っていた。

「一度排除されたものは、二度と戻ってこない」

と言う彼に、そんなことないよ!図書館は今もちゃんとあるし、

人々は本を読み続けているよ!

価値のあるものはちゃんと必要とされて、なくならないんだよ!

と何度も言ってあげたくなった。

けれど、その度に気休めにもならないと思い留まった。

確かに必要とされて残るものもある。

でも目録カードは確かに使われなくなった。

この作品が初演された2000年、中学だった私は、

カウンターの中に入りたいという理由だけで図書委員をやっていたことがあったけれど、

その横に並ぶ目録カードの使い方も、何のためにあるのかも知らなかったし、

先生もそれは教えてくれなかった。

その代わり、パソコンで本を検索する方法は教えてくれた。

そして以後目録カードを使ったことは一度もない。

きっと同じ年齢の戸塚君も同じなんじゃないかと思う。

だからこそ、思い入れという観点からハリーの心情を紐解こうとすると、

いまいち感情移入ができなかったのかもしれない。

 

中盤からハリーは目録カードの棚におもむろに座ったり、

挙句の果てには土足で飛び乗るようになる。

その冒頭の様子からの変貌ぶりに

「大切にしてたんじゃないんかい!」と理解不能だと帰り道に話している女性たちがいたけれど、

そうじゃない、ハリーが守りたかったものは目録カードそのものじゃない。

当初、その象徴であるそれこそが神聖であるとしていたかもしれない。

けれど、本当に守りたかったのは物そのものじゃなくて、

目録カードを目録カードたらしめる文化であり、

価値観であり、その存在意義を信じているハリー自身の信念なんじゃないかと思う。

その個性が失われること。

ユニークで、パーソナルなものが人の手によって奪われること。

ハリーはそれに抵抗している。

それは目録カードであり、歴史的な図書館であり、フランスやイタリア特有の町並みであったり。

そのことに気づいたからこそ、

一度は『目録カードを手元に残す』というディッキーの交渉に応じたにもかかわらず、

戻ってきて図書館と共に命を絶ってしまうのだ。

何故なら、新着図書のカードが作れないから。

更新されて行かない目録カードは、目録カードではなくなっているから。

 

 

 

帰り道、永遠に終わりそうもない工事を続ける渋谷の街に浮かぶ、

タワーレコードや、スターバックスの看板を眺めながら、

どうしてもハリーに自分のことを重ねずにはいられなかった。

私の神様も私の中にある。

そのよりどころはふるさとの風景や、

自然や、生き物、そして漠然とした平和だと思っている。

それが自分の手ではどうしても守れないと感じたとき、

やっぱり私の世界を自分の命こっきりで終わらせようと思ってしまったからだ。

ディッキーは子や孫のためにより良い世界を作っていくのが使命じゃないのか?

というようなことを言っていたけれど、

その「より良い世界」を拠り所にしていたからこそ、

そうじゃない世界に命を懸けて僅かでも抵抗したいと思うのだ。

自分の信じていた世界が、間違った方向に進んでいく。

そしてそれを私の力では止められないと思った時、

私は子供を持つことをやめようと思った。

そんなことを人に行ったら、それこそハリーよろしく「キチガイ」だと思われるに違いない。

だからってこんな誰も見ていない場所で、

ひそかに想いを書き綴っているのもいかがなものかとは思うけれど。

 

ハリーは悲しいことに作中で誰にも理解をしてもらえなかった。

たった一人でも彼の信念を受け入れてくれる人が現れれば、物語の結末は違ったかもしれないのにと思わずにはいられない。

誰かが手を差し伸べていれば、

ハリーが一歩を踏み出すきっかけがあれば、

共感はされなくていい。ただ認めてもらいたい。

でも自分だけが大切にしていたからこそ、誰にもわかって欲しくない。

誰も自分には追い付けない。

そうして自ら人を遠ざけて孤独になっていくハリーを、

守れなくて悔しくてたまらなかった。 

そのラストシーンを目撃した時、

どうしようもない切なさのあまり、

これは腰が抜けて立ち上がれないかもしれないと思った。

それでも素晴らしい作品と役者のお二人に拍手を送るため立ち上がったら、

通勤用のパンツのお尻がパリパリになっていた。

あー、ナプキンが決壊したか・・・と冷や汗をかいたが、

それは血ではなく大量の脂汗だった。

 

幸いなことに、私には理解しようとしてくれる夫がいて、

私も彼のことを理解したいと思っている。

今はまだいいかなとはぐらかしている反面、

彼に子供を抱かせてあげられないことだけが、ずっと心にわだかまる。

あたたの子供は産みたい。

二人で育ててみたい。

けれど、愛しているからこそ見せたくない世界がある。

その爆弾を懐に隠して、墓場まで持っていけるか。

それが私のDefiledかもしれない。

 

ただ、一つだけ言えることは、

ハリーのように時代を嘆いている人も、

抗おうとしている人も確実にいて、

こうして作品を通して私たちに投げかけてくれる人がいることに気づかせてくれた、

この作品に出合えて本当に幸運だということ。

きっかけをくれた戸塚くんには心から感謝する。

戸塚くんのファンになれて良かった。(結局そこかい)

でも、実はファンになるずっと前も含めて、

戸塚くんの舞台は何度か拝見してきたけれど、

今までは正直「戸塚君が演じている」役という印象の方が強かった。

(演出の方の「戸塚君の見せ方」の好みは大いにあった気もする・・・)

だけど今回は、「ハリーが戸塚くんの体を借りている」ような感じだった。

そこにいたのは戸塚君であって、戸塚くんじゃない。

間違いなくハリー・メンデルソンだった。

初めて見たけれど、鈴木勝秀さんという方の演出が、すごく好きだと思った。

 

というわけで、鑑賞から5日が経とうというのに、

いまだ心の中でハリーのことを考えている。

毎晩、ハリーの言葉をもっと聞いてあげたかったと思ってしまう。

できることならもう一度、ハリーに会いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

因果応報

忙しさに流されていると、

季節の変わる匂いにまるで気づかなかったことにふと立ち止まってようやく気付く。

昨日、上着を着てきたことに少し後悔しながらいつもの踏切を渡っていたとき、

目の前を小さなほこりが横切った。

妙な軌跡を残して飛んで行ったそれは、

タンポポの綿毛だった。

すっかり花は枯れ、綿毛が飛び立つ季節になっていたのだ。

 

毎年この季節は、気づくと春が終わっている。

いつの間にか誰かが去って、知らぬ間に新しい人がが入ってきていたりする。

そして少しずつ上昇する気温とともに高揚している自分の気持ちにも気づかなかったりする。

仕事で疲れて体はへとへとなのに、妙にテンションは高く、

それについて行けず睡眠不足になっていることがしばしばだ。

そしてその高揚感と気持ちの変化のスピードは、

もれなく周りの変化も見えなくしてしまう。

そう、季節が変わっていても気づかなかったのと同じように、

大事な人の変化にも気づかず過ごしてきてしまった。

いや、本当は気づいていたけれど、

立ち止まって向き合うことを怠ったのだ。

いつもそうだ。

忙しさとそのストレスからくるエネルギーを発散することを優先して、

丁寧に生きることを忘れてしまう。

心穏やかだった頃に、もっと時間と感覚を大事にしておけばよかったと思うのは、

失ってから大切なものに気づくアレなのだ。

 

自分の心配を取り除きたいがために、

早く早く!と急かしてしまった。

この状況を作り出した原因の半分は私にあるのにだ。

信じよう。そして待とう。

時間はかかっても、悪い状況を放置できるような人ではないことは、

私が一番知っているはずなのだから。

ずるいは一度蓋をして、

私もここで深呼吸。

走らず、焦らず、気にせず。

のんびり行きましょう。

後のことは、その時考えよう。

 

 

あたらしいまち

学生時代の恩師に、

日記でもブログでもなんでもいいから、とにかくたくさん文章を書きなさい。

書けば書いただけ文章がうまくなるからと言われ、

狂ったように文章を書いていたのも今は昔。

先日データ整理のために当時使っていたパソコンを久しぶりに開いたが、

すっかりキーボードの位置が手に合わなくなっていた。

そして購入してから1年近くたつこのパソコンで、

先ほどから誤入力の嵐に既に心が折れそうである。

 

結婚をして家を出た。

30年近く暮らした家族と離れて暮らすのは初めてだった。

住み始めた街には本屋もスタバもTSUTAYAもない。

カラオケはないのにカラオケスナックは異様に多く、

土曜の昼間からお年寄りの歌声がうっすら漂う街である。

夜中に酔った大学生の笑い声が聞こえる。

汚くて狭いところばかりだが、

安くて旨い飲み屋には困らないこの街は、

どこか夫が結婚前に住んでいた大阪に似ている。

 

地元が嫌いだったわけではない。

むしろ慣れ親しんだあの街が大好きだった。

だけれども、自分の選んだ人と、自分で選んで暮らし始めたこの街を、

 

なかなか開かない踏切で立ち往生するとき、

分煙の意味を為さない禁煙席でハンバーガーを待つ間、

蕎麦屋さんに貼られたメニューが透けて、去年のカレンダーの裏紙だと気づいた時、

無駄な動きが多くてちょっと苦手だったレジのおばちゃんだったのに、

そのスーパーが閉店する時には、もう会えないのかと寂しくなっていたときに、

太った野良猫が道案内をしてくれた帰り道で、

ああこの街がわたしの住む街なのだと、

少し愛おしく思うのだ。

そしてそんな風に感じられることを、なんだかとても尊いことのように思えて、

初めて自分で生きている実感が持てた、なんて言ったら大袈裟だけど、

自分から家を出たという少しの高揚感は、

新しい生活が明るいものであると予感させてくれるのだ。

 

この気持ちをいつか忘れてしまうのがもったいないな、

という少しのセンチメンタルで、

あたらしいまちでまた文章を書くことにした。